動物に感情はあるか?という疑問は誰もが必ず持ったことがあると思います。僕が食べるステーキは牛を殺して精肉になっています。僕が食べる唐揚げは鶏を殺して精肉になっています。誰かが食べる犬肉や鯨肉、ラム肉や馬肉も誰かが屠殺して精肉となります。食べる時に、食べられる者の事を深く考えるのは非常に矛盾があります。

話は大きくなりますが、地球が誕生したのが46億年前、生命の誕生が38億年前、恐竜の絶滅が6500万年前、人類の祖先が誕生したのが600万年前、現代人類の出現が16万年前、古代文明が誕生したのが5000年前です。気が遠くなるような数字でよくわからなくなりますが、これを一年で換算すると、生命誕生 1週間前、人類の誕生 半日前、現代人の誕生23分前、古代文明の誕生43秒前となります。有名な話なのですが、やっぱり私達は本当に一瞬の今を行きている事がわかります。だけれどもその一瞬へ命の連続は途切れる事無く、今の私達へとつながっていると思うと非常に不思議です。

その遥かなる時間の流れの中で、少しずつ袂を分かち人間も動物も生まれてきました。人間に近い霊長類のゴリラの話をすこし聞いてください。

東京の上野動物園の話ですが、上野動物園では希少な動物を増やそうと言う計画があり、当時京都からやって来たしていた「げんき」の為にイギリスからビジュという若いハンサムなゴリラがやって来て、恋仲になりました。しかし、しばらくたっても子供が生まれず、後からやって来た「ももこ」という年増のゴリラがやって来て間に割って入り、ゲンキが失恋をしました。ゲンキは失恋によって体調を崩し体重が激減しさらに「小指をかじる」自傷行為を行ったため困り、京都の動物園の母もとに里帰りをさせることにしました。

ゲンキが帰る前日に、ビジュが心臓マヒで突然死んでしまいました。上野動物園では、ゲンキは里帰りをするし飼育員は落胆していたのですが、しばらく経って「ももこ」に生理が来ない事に気付き妊娠していた事がわかりました。ももこは全く育児に興味が無かったのですが、出産を無事にすむと母性本能が目覚め完璧な母親となりました。

こんな話を聞いているとなんだかお昼のワイドショーを連想しますね。人間のようなゴリラは、私達とどのくらい違うのでしょうか。遺伝子としては99~96%同じで、違いは全体でも4%程度しか違いません。ただし、動物のみた世界は感覚が違っているかもしれません。犬の場合では人間の100万倍と言われるほど嗅覚が良いです。そんな彼らの世界はきっと私達と違う世界でしょう。動物に置き換えて考える事を擬人化と言いますが、本当に動物が思っている事と言うのはわかりません。ホルスタイン種の牛は人間が家畜化したのですが、この種類は分娩を行った後子牛を人間が連れ去ることに対して抵抗が少ないように交配を改えて来ました。普通の野生種では考えられない事です。またロシアの実験では、40年にわたって人懐っこい狐ばかりを交配させた結果、犬のような反応とそれに伴って体まで変化が同時におこりました。

犬は、恐怖を感じると耳を後ろにし震えます。攻撃心を感じると、牙をむき毛を逆立てます。喜ぶとしっぽと体を振ります。人間とは最古からのパートナーであって、さらに家畜化された動物です。話は元に戻りますが、牛はどうでしょうか。馬はどうでしょうか。僕は、小さな頃から犬を飼ってみて感情(特に恐怖と歓喜)がある事を確かに感じました。何故犬にあって、他の脳容積やコミュニケーションを持つ動物に対して感情が無いと言えるのでしょうか。無いとは言い切れないと思います。

ただし、感情があると言う理由を持って、食べると言う事を否定するのは、またナンセンスな事なのかと思います。冒頭で記した通り私達の命は遥かなる時を紡ぐ糸であって、食べる食べられるということを通して成り立っているのですから。それでも、僕がお肉を食べるときその精肉に対しての疑問と矛盾を感じているのであれば、そこに価値があるのだと思います。それは今のところ人間だけにある感情なのですから。

菜食主義者も肉食主義者もお互いを責めれる程、できた人間ではないと思います。今話されている話題の最も多くを占めるのは、屠殺の際の動物に対する方法であって、目的ではありません。気がつかないうちに死ねるのであれば良いのか?自然死した後にその肉を食すのであれば許されるのか?僕はおそらく雑食主義を貫く事になりそうです。

 

ゴリラの元気:http://www7a.biglobe.ne.jp/~mizue/genki.html

  • 新入りのモモコがリーダーと仲良くする事は、前からいたメスゴリラ達にとっては気に入らない光景です。ゴリラ社会にも順位があって、年齢の低いものや新入りは遠慮しがちにするのが普通です。特に32歳という年齢でヒジュの群れの中でも順位が上のリラコは、ヒジュとモモコの間に立ち、いろいろと邪魔をしようとします。でも、モモコはそんな事あまり気にしない様子で、マイペースでヒジュに接近します。優しいジェントルマンのヒジュは、間に立たされながらも、双方に対してオスゴリラとしての役目を果たし、群れをまとめていきます。さらに、後から入ってきた神経質なトトに対しても、優しく接します。しかし、この頃から元気の元気がなくなってしまったのです。モモコに追いまわされたり、ヒジュの関心が他のゴリラに行ってしまったりで、次第に孤立し、食欲もなくなり、103キロあった体重が63キロにまで減ってしまったのです。そればかりか、アカギレから進行した左手小指の自傷行為や、過食と直後の嘔吐などがみられるようになりました。飼育係の人達の懸命な努力もむなしく、なかなか体調がよくなりませんでした。動物園で生まれ育ち、たくさんの人たちに可愛がられ、人間にもゴリラにも興味をしめし、元気いっぱいの元気でしたが、初めての試練に身も心もボロボロになってしまったのです。群れでの生活にうまく馴染めなくなってしまった事。大好きなヒジュを独り占めできない淋しさ、失恋。そして、拒食と過食。自傷行為。元気は心の病気にかかってしまったのです。ゴリラの心と人間の心がまったく同じなのかどうか、それはわかりません。人間だって、自分と他人とでは、感じ方が違うのですから。でもね、悲しいとか、淋しいとか、痛いとか、嬉しいとか、楽しいとか、そういう思いの本質は同じだと思うんです。飼育係の人達が元気を回復させるにはどうしたら良いのかいろいろ考え、生まれ育った京都市動物園へ帰る事になりました。1999年10月29日、「ゴリラのすむ森」に来てから2年7ヶ月目の事でした。
  • ところが、明日は元気が京都へ行ってしまうという10月28日の朝、突然の事件が「ゴリラのすむ森」におこってしまいました。ヒジュが、吐いた物を喉につまらせ倒れてしまったのです。異変を感じたリラコと元気がヒジュをとりかこんでいたせいで、飼育係の人達は直ぐに近づく事ができず、午前11時30分に亡くなりました。優しくて頼りがいのあるヒジュが亡くなってしまったと言う事を、残されたゴリラ達が理解できたかどうかわかりません。この時、元気はどんな気持ちで京都へ向かっていったのでしょうか?元気の心の中に、ヒジュはいつまでも生きているのかも知れません。ヒジュが亡くなって1ヶ月近く経った頃、モモコの様子に変化が現れました。ヒジュの赤ちゃんを身ごもっていたのです。
  • 悲しみにくれていた「ゴリラのすむ森」に希望が沸いてきました。飼育係の人達にとっても、何年間も費やしてきたたくさんの時間と努力が無駄ではなかったと確信されたのです。そして、2000年7月3日。モモコが一頭のオスの赤ちゃんを出産しました。7月1日の朝8時頃に最初の陣痛が始まり50時間後の分娩でした。赤ちゃんゴリラの名前は、一般からの公募により「モモタロウ」と名付けられました。今、モモタロウは「ゴリラのすむ森」でスクスクと元気に育っています。

隠された現実 動物達のSOS●近代畜産の実態:http://sos.k2.xrea.com/

  • 家畜と呼ばれる動物たちは世界の多くの畜産場において一生涯過酷な生活を強いられた上で、肉となるためにと畜場へと輸送され殺されています。畜産動物が辿るその一生は私たちが想像するよりはるかに過酷なものへと変わり、広大な牧場ですくすくと育つイメージはもはや現実のものではありません。コストを削減するためにほとんどが経済的効果に重点を置いた工業畜産による経営を行い、常に過密状態の中で育てられるのです。家畜という名に生まれついた動物は経済動物としてしか扱われません。ペットの犬や猫にすれば虐待行為とみなされることが、家畜動物には平気で行われています(無麻酔での去勢・尾や嘴の切断など) 一生の大半は隔離・拘束された狭い檻の中であり、不自然な飼料によって無理に太らされる生活はどんな動物でも耐えられたものではありません。毎日のストレスから心身はボロボロとなり、出荷前にはほとんどの個体が何らかの病気を患っています(メスの一生は更に過酷なもので、短期間に交配・妊娠・出産を繰り返すことが農家にとって重要な課題とされている)そして、彼らにとって解放されることは「死」を意味し、最後は屠殺-肉を解体する工場で体をバラバラにされる運命にあります。これらの動物達は、出荷前には食欲がなくなり屠殺場に連れて行かれる時には必死の抵抗をみせ涙を流す事さえあるといいます。しかし、牛や豚や鶏が悲しみと恐怖を人間と同じように感じる動物だということを認めてくれる者は存在しません。屠殺場でも機械的に処理されるだけであり、当たり前のように麻酔や安楽死は望めません。

北の(来たの?)獣医師 牛の感情と知性:http://mamesaku.livedoor.biz/archives/51976857.html

  • だいぶ前のデイリージャパン誌に、英国の雑誌の論文が紹介されていた。それによると人と動物の関係(HAR)の研究誌「Anthrozoos」Vol.22,Number1,2009年3月号に、516戸の酪農場でHARを調べたところ、90%以上が、「牛は感情を持っている」と回答し、78%が「知性を持っている」と回答したという報告が載っている。
    このデーターで私が驚いたのは英国の「酪農家」の約10%は、「牛は感情を持っていない」と回答していることさらに「酪農家」の22%が「知性を持っていない」と回答していることである。都会に住む人たちならともかく毎日牛にエサをやり搾乳している英国の「酪農家」がそう思っているのである。これに対して、日本の「酪農家」は、どうだろう。「牛は感情を持っていない」と答える酪農家は、日本にいるだろうか。「牛は知性を持っていない」と答える酪農家も、日本では英国よりはきっと少ないだろうと思う。最近、往診中の牛の目がとても気になるようになった。彼らの目はじつに様々な表情を浮かべるので飽きることがない。さまざまな目の表情を撮ろうとしているのだがカメラを向けたときの彼らの目はおおむね、緊張している。獣医に対しては、無理もないか(苦笑)・・・多くの牛達が涙を流すことも、以前に書いた。その時の彼らの目の表情はたいへん悲しそうである。悲しいだけではなくその目には恐怖感もあるように見える。悲しみや恐怖だけではなく注射針に刺された時の痛みなのかその目が痛みをこらえて震えるように見えるときもある。「牛には感情や知性がない。」という発言をする英国の「酪農家」はいったい牛のどこを見ているのだろうか、と思う。